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2010/02/16.Tue

やっぱり悲しい……メモ

高校時代、青春という名の轍を悶々と足踏みしていた時代。私のその時代の「全て」ともいって過言ではない程の割合、共に過ごしてきた食堂が在った。

その道向かいには映画館があって程なくボーリング場が出来て。当時の西3条通りではイトーヨーカ堂も健在で、学校を終えた私達は一階の半分に折られ銀紙に包まれたお好み焼きを頬張っていたな。

学校帰りや、休みだった日中、悪友達と戯れてはその食堂に足繁く通ったものである。必ず二階に上がりテーブル席か小上がりを陣取り、暫くして女将さんがカツカツとゆっくり上がってきて注文をとる。忙しい時は中々上がってこないから階段中腹まで降りて、私達が注文したりもしていた。水は勿論セルフで既にお冷やポットが置かれ、自由にやっていた。時々余りに度を超えた騒がしさに女将さんに怒られた記憶もある。私は大体カツ丼オンリー。時々豚丼にも浮気したが必ずカツ丼の元へ戻っていたものだ。ラーメンを食したのは二十代始めの頃、顔赤らめる遅咲きであった。

カッ、カッ、と大きなお盆を携え重たそうに持ってくる。私達は心得たものでその分のお金を予め用意しておく。この食堂は品をお渡しされた時点で会計をする仕組みとなっている。その仕組みを判らない同級生や他校生などが居たら、何ともいえない優越感に浸っていたものだ。

高校を卒業し、上京。帰帯する度に其処に寄っては一つ思い出のお土産を持ち帰っていたのだ。そんな二十代半ばを越えた私、茨城時代。母親から衝撃の報告をされたのだった。「食堂辞めちゃったって」「嘘だぁ……」本当だった。しかしある筋から暫くして復帰した、との情報が耳にはいり胸をなで下ろしたものだ。話によると、体調を壊したご主人であったが、大多数の常連客の方々からのカムバックの声に再び店を開ける決意を固めたらしい。そんな話を遠く茨城から聞いていたのだった。

私の体調が芳しくなくなり、帯広にUターンした当時は三十代になったかならないかばかりだ。帰帯して直ぐに其処の暖簾を潜った。変わらずのご夫婦に懐かしさと込み上げる不思議な感情が混ざり鼻の奧がなんかツンと痛くなった。久々のカツ丼の味は全く変わっておらず嬉しかった。

しかしこれが私にとって最後のカツ丼となってしまった。某飲食店で勤めていた私は、同僚に「そういえば彼処もう閉店しちゃったんだって」「え……マジで?!」「もう取り壊すらしいよ」「………」私は呆然とした。聞いてから直ぐ余りのショックに少し記憶が飛んでしまっていたらしい。同僚は「何?!どうしたの?泣く程なの…?!」いつの間にか泣いていたらしい。本当に悲しかったのだ。親父さん女将さんに最後に「お疲れ様でした、今まで有り難う!」と私の気持ちを伝えたかった。悲しかった。閉店は平成18年9月30日。創業は昭和29年であったという。



そうして時は過ぎ、平成22年2月12日。其のたんきち食堂の親父さん小林正吉さんが85歳で人生の幕を下ろされました。やはり涙が溢れました。悲しいです。ご冥福をお祈りいたします。本当にお世話になりました。青春のあらゆる場面でたんきちは存在していました。私の青春の味、人生の節目節目の味。再確認、原点の味でした。



本当に……

本当に…………






親父さん、お疲れ様でした。


ニソロモシリ字時代に思いを馳せて書いた記事 あれから時は過ぎ
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ぶうメモ | Comments(2) | Trackback(0)
Comment
ありがとうございます
義父が旅立ち3ヶ月が過ぎ家族も落ち着きを取り戻してきました。義父の足跡をと思いブログを拝見いたしました。義母も元気で過ごしております。いまだにスープを作り、豚丼のたれを作り、ご近所に配っております。よろしければ義母のところへ声をかけてあげてください。とても喜ぶと思います。感謝
たんきちご家族さまへ

ブログを続けていてこんなに嬉しい事はありません!感無量です!わざわざご家族の方からコメント頂き嬉しいです…!親父さんも天国でまた厨房にたって切り盛りしちゃっているかもしれませんネ♪女将さんの近況、お元気そうで何よりでございます。「いまだにスープを作り、豚丼のタレを作り、ご近所に配っております」素晴らしいですヽ(^o^)丿!私も頂きたい位です(泣)!!女将さんにお逢いし「お疲れ様でした!」と云いたいです!近々メールにて改めてお礼申し上げます。こちらこそありがとうございます(泣)ホントに感謝致します。

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